日記_20180311

2018/03/11 (日)

アドラー心理学

今日の日記はアドラー心理学の話題がメインである。

アドラー心理学について分かる人がいたら是非ご教授を願いたいものだ。

今週を振り返って

あまりの忙しさに家に帰ってきてから倒れこむような生活が続いていたためブログも更新が滞っていた。

いや、仕事の忙しだけが問題であったわけではない。

そもそもこのブログの目的は口下手というか人とのコミュニケーションをとることが苦手な私の名刺代わりみたいなものにするつもりである。

人と話すことが苦手なのは自身でも非常によく理解しているが、今週はその私のコミュニケーションについてズタボロと言っても良いくらいダメだしをされた週であった。

そのおかげで「私は何をしてもダメだ」、「この現場で長続きはしないだろう」、「私がいないほうがむしろいいんじゃないか」、「現場を辞めるか」、「むしろ会社を辞めたほうがいい」、「人生もそのまま退場してしまおうか」等と自己否定のサイクルに入ってしまい、仕事を処理せねばならない職場ではまだしも、縛られるものが何も無い自宅に帰った後には何もする気力が起きなかったというのが正しい表現であると思う。

こんなことを思いながらたまたま手に取った本がアドラー心理学の本だったのだが、上記の自己否定サイクルがアドラー心理学でいうBasic Mistakesに該当するものだというのだ。

今現在自分が悩んでいるようなことまさに言い当てられた感覚になり、本をさらに読み進めることにしたので、以下で本の内容を掻い摘んで話したいと思う。

自身の状況の整理

私は人の気持ちを考えることが苦手である。相手を怒らせてしまう物言いをよくしてしまう。

基本的にはいつでも相手のためを思っているし、怒らせる気も微塵もない。逆に自分が言われたらどうなんだと聞かれることも多々あるが別に自分が同様なことを言われても怒ることは思いつく限りではない。

ただ、これは私が温厚だからであるからとかそういった類のものでは全くなく、むしろ私は怒りっぽい方であると自分では考えている。

どういうことか言うと、私は平均的な人とは怒るポイントが違うのだ。私が怒る時それは不平等に晒された時である。いや、違うかもしれない。不義理なことと言ったほうがいいかもしれない。等と考えを進めて具体例を出そうとしたのだが、イマイチピンとくるものが出せなかった。あくまで徒然と書くことを目標としているのでここは濁しておこうかとは思うが要するにが一般的な感覚を共有できないというところがあるのだと思う。

自身が一般的な感覚を共有できないことを明確に意識してみる。

Baisc Mistakes

冒頭でも話したBasic Mistakeとは何かということに関して分かりやすく示してくれているサイトがあった。

ストレスが強すぎたり、
ストレスののかかる状況が長く続く状況に耐えがたくなると、
自分の極端な思い込みが、まるで事実のように思えてきます。
「あいつはきっと俺のことを、常に下にみているに違いない」
「取引先のすべての人が自分のことを見下している」
「俺の仕事や存在には価値はないんだ」
「俺には一生味方はいないんだ」
そういった決めつけ・誇張・見落とし・過度の一般化・誤った価値観を
アドラー心理学では、「基本的な間違い(basic mistakes)」と呼びます。
ちなみに、上の例は全部、過去の私自身のものです。

ここの筆者も「過去の私自身」と言っているが同じようなことが私自身も起きていたことは上記を読めば一目瞭然である。

ただ、その後のツッコミの入れ方についてはなかなか同意できない。

「あいつはきっと俺のことを、常に下にみているに違いない」
という思い込みには、
「たまたま相手の機嫌が悪かっただけかもしれないじゃないか」
「言った本人も、言い出せないだけで反省しているかもしれないじゃないか」
「そもそも言い間違いだったかもしれないじゃないか」
というふうに突っ込んでいくのです。

読んでみて思ったのだが「~に違いない」という表現に比べて「~かもしれないじゃないか」は可能性を残しすぎている表現だし恐らく筆者自身もそれが理由であるとは思えていないのだと思う。その理由を曖昧なままにして放置することにより気持ちが軽くなるとかそういった類の話なのだろうか。もう少し本を読み進んでみたく思う。

原因を探ることは解説にはなるけど解決にならない

本当なのだろうか?本曰く原因を探ることはあくまで過去志向であるしまた解決不能な原因を問題とすることにより停滞してしまうとのことだ。

なるほど確かに解決不能な原因を問題にするのは愚かしいが、それならば原因を別に求めるか、原因の解決が不可であることを自覚することにより暫定対応等を講じれるのではないだろうか。

例) 人が排泄物をすることにより悪臭が漂うという問題があったとして
  人が食物としての物体を摂取する以上何かしら排泄物が出るのは必然である。←解決しえない(あるいは物体を摂取しない等もあるかもしれないが)原因である
  こんな必然なものを原因としてしまっては仕方がない。
では対策として悪臭を隔離すればいいのではないか⇒解決策としてのお手洗いの発明
等やはり適切に原因を究明していけばいいだけなのではないか。

このように解決しえない原因には別の原因を探るか暫定対応を講じればよいのではないだろうか。

等と考えながら本を読み進めていたら結局は目的に沿ってそれを解決するための原因を探るとのことで結局は原因を探るらしい。

であれば何がどう違うと定義しているかというと過去志向か未来志向なのかというところが注目されているみたいだ。では私が過去志向なのかというとそうでもない。あくまで常に目的を意識しその目的を達成するための具体的な手段まで考える上で原因を探っている。つまりここに私の問題があるわけではないのだろう。

本を最初から最後まで流し読みしてみて

何か自身を変わるきっかけになれば良いと考えたがどうしても納得いかないことが多すぎて実践できそうになかった。

「相手がやることは全て目的があり、それが善意からの結果だと信じ、信じることに根拠を必要とするな。」等本当に無理である。

何故信じることに根拠を持ったらいけないのだろうか。宗教なのだろうか。

いや、でもよく考えてみたらあえて悪い気持ちになって何の解決にもならないなら相手の善意を探したほうが建設的ではないのか。

どうせ根拠なんか見つけても相手の悪いところが見えて終わりなのであれば・・・そこから何の解決にもならないのであれば・・・相手の善意をひたすらに探しそれを妄信することにより事態の解決にはつながらないまでも自身の心の平安を得ることはできるのではないだろうか。

とこうなってくるとやはり宗教チックな考え方になってしまう。

宗教にもやはり心理学のエッセンスが詰め込まれていたということなのだろうか。

Reference

マンガでやさしくわかるアドラー心理学
坂本倫朗オフィシャルサイト